2010-06-08(Tue): 読書メモ−内田麻理香著『科学との正しい付き合い方』

科学との正しい付き合い方 (DIS+COVERサイエンス)

・「畏友の単著が相次いで刊行−内田麻理香著『科学との正しい付き合い方』、長神風二著『予定不調和』」(編集日誌、2010-04-17)
http://d.hatena.ne.jp/arg/20100420/1271718749

を書いてから、早1ヶ月半が過ぎてしまった。週末には、

2010-06-12(Sat):
第十回Wikiばな「知の越境、そして、すばらしきムダ知識へ」
(於・東京都/IIJ
http://wikibana.socoda.net/wiki.cgi?%c2%e8%bd%bd%b2%f3Wiki%a4%d0%a4%ca

があり、著者のお二人に久しぶりに会うのに、このままでは不甲斐なさ過ぎる……。

ということで、ディスカヴァー・トゥエンティワンでいま本当に注目すべきは、

佐々木俊尚著『電子書籍の衝撃』ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年、1155円)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887598084/arg-22/
http://www.d21.co.jp/modules/shop/product_info.php?products_id=746

ではなく(佐々木さん、ごめんなさい)、

内田麻理香著『科学との正しい付き合い方−疑うことからはじめよう』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年、1260円)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887597932/arg-22/
http://www.d21.co.jp/modules/shop/product_info.php?products_id=742
・長神風二著『予定不調和−サイエンスがひらく、もう一つの世界』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年、1260円)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887597940/arg-22/
http://www.d21.co.jp/modules/shop/product_info.php?products_id=741

の2冊だ!ということで、まずは内田麻理香さんの『科学との正しい付き合い方−疑うことからはじめよう』について書評以前のメモを書いてみた。

これは、長神風二さんの『予定不調和−サイエンスがひらく、もう一つの世界』ともつながるのだが、硬い表現をすれば、「物語としての科学」「科学の物語性」にこだわって、「科学を物語る」ことに徹した一冊。それも相当な直球勝負でだ。

と、こう書くと、一見頭の良さそうな、しかし実は中身のない読書メモになってしまう……。

自分なりに表現すると、「科学」や「サイエンス」という言葉を前にすると、私たちはえてして、向こう側の、向こう岸の話だと思ってしまう。とはいえ、「対岸の火事」ということわざレベルで向こう側に押しやっているわけではきっとない。おそらく、横浜から東京湾を挟んで木更津方面がぼやっと見えて気になるくらいのレベルでは、やはり気にはしている。しかし、なかなか向こう岸まで足を伸ばすところまではいかない。

『科学との正しい付き合い方』は、こういった対岸にぼやっと見えるものを、もう少し近づけて見せてくれる働きがあるのではないか、と思う。そのときの論法は、向こう側にあることをこちら側の人にわかりやすく説明するというスタンスばかりではない。それよりは、いや、向こう岸の話でもあるけれど、こちら側にもありえる話と気づかせてくれるのだ。

少し本書の内容に引き寄せて言えば、「疑う心」(99頁)や「疑いつづける忍耐力」(115頁)の話題は、理科的な意味の科学の専売特許ではないことを思い出させてくれる。たとえば、私は大学で歴史学政治学を専攻したのだが、歴史学ではM.W.スティール先生から"Skepticism"という言葉で「疑う心」を学び、政治学では松澤弘陽先生から「疑問の糸をぶら下げておく」という言葉で「疑いつづける忍耐力」を学んだ。この2つの教えは、私が大学で学んだすべてと言ってもいい。しかし、自分自身、4年間かかってようやく学びえたことだけに、そうそう人に「疑う心」や「疑いつづける忍耐力」を説くところまではいけないのが実情だ。

しかし、内田さんはもちろんご本人に多大なご苦労がありはしただろうが、大切なこの2つの力−「疑う心」「疑いつづける忍耐力」−の大切さをわかりやすく説いている。このような話は、往々に単なる精神論に陥ってしまうものだ。しかし、内田さんの場合、「科学リテラシーとは?」、「科学的なものの考え方とは?」という問いを立て、その答えを探るプロセスの中で「疑う心」と「疑いつづける忍耐力」の大切さを気張らずに示しているところにうならされる。

さて、以上の流れとはまったく離れるが、本書で一番感動を覚えた箇所にふれておきたい。2009年11月、一連の事業仕分けを受けて科学者集団による決起集会が行われた。本書の中で、内田さんはその集会と集会に同調する科学コミュニティーの空気を正面から毅然と批判している。内田さんはサイエンスコミュニケーターを名乗って長年活動し、本書の中でもサイエンスコミュニケーターとしての活動を振り返ってもいるのだが、この肩書があらためて本物と実感した瞬間だった。横のものを縦にするだけでもサイエンスコミュニケーターを名乗ることも、続けていくこともできるかも知れない。しかし、私は立ち止まってサイエンスそのものや、サイエンスのコミュニティーにプロテストできてこそ、サイエンスコミュニケーターではないかと思う。おこがましい言い方だが、ああ、この人は本物のサイエンスコミュニケーターだ。そう思えただけでも本書を手にした意味があった。

あとは、私としてはもう少し内田さんにうかがってみたいと思った点を幾つか。

103頁〜124頁のあたりに出てくる「「なるほど」と「なぜ」のあいだに−「?」の前には「!」が必須」という主張は、まだどうもストンと落ちてこない。というのは、個人的な体験に基づく話で恐縮だが、自分はYahoo!知恵袋というサービスを企画・設計した際に、人の「?」を生み出すには、まず「?」を気軽に言葉にしてもらい、次に「なるほど!」という感動を生みだすことが、次の「?」を生み出していくと考えていたからだ。

もう一つは、236頁から255頁に渡る専門家と非専門家の媒介者の話。これは内田さんが引いている平川秀幸さんの意見に対するコメントなのかもしれないが、媒介するコミュニケーターを論じる前に、まず科学者に限らず、あるゆる人が何らかの分野でひとかどの専門家であると承認しあうことが必要ではないかと思っている。決して大学の専門家がその権威によって認定する必要はない。ただ、「誰もが何かの専門家」という意識で、ごく自然な敬意ある振る舞いを誰に対しても、既存の専門家がするようになれば、「特殊な感覚」でない人たちが少しの勇気をふるって、一見難しそうな専門の世界に発言しやすくなるのではないだろうか。

このへんは、ぜひ週末にお目にかかった際にでも話題にできればと思う。

最後にコミュニケーターとして大事なことだよなあ、と思った箇所を1つ挙げておこう。

133頁にこんな表現がある。

ガトーショコラ(チョコレートケーキ)を作ろうとしたときの失敗もあります。

ガトーショコラの何たるかをさらっと括弧書きしているところは、まさに真髄。サイエンスコミュニケーターに限らないが、コミュニケーションに関わる方の多くが、その分野に詳しくない人に対して意外なまでに専門用語を使う場面によく出くわす。いただけないなあ、と思いつつ、自分はどうか?と省みるのだが、ああ、さすがは内田さん。こういった細部でも、いや細部だからこそ、決して抜かりがない。真のコミュニケーターである。