2006-06-03(Sat): 授業評価サイトは中傷でいっぱい?(4)

山本淳子さん(新潟県立看護大学)の「授業評価サイト 中傷の氾濫 運営者に責任」(朝日新聞朝刊「私の視点」欄、2006-05-19)をめぐる話を続ける。二つわけた論点のうち、ここでは批判の仕方や批評に対する姿勢の話題に絞る。

教員の実名を公開する場合には、最低限、本人にその旨連絡を入れるべきだろう。

という山本さんの指摘に対して、私は以下のように指摘をした。

これは真剣に山本さんにうかがってみたい。仮に山本さんが求める連絡を入れた際、教員側としては受け入れがたい批判的な投稿はどのように扱えばよいのだろうか。連絡を受けた教員が受け入れがたいと思う批判的な投稿は掲載すべきではないということだろうか。連絡を入れるという言葉は一見中立的な響きがあるが、連絡を入れることが評価される側にある教員の許諾をとる、ということにつながるのであればそれもまたフェアではない。

これに寄せられた山本さんのコメントは、

各教員に許可を求めるというのはまあ、非現実的ですよね。非現実的ではありますが、用心したほうがいいですよ、というメッセージをこめてあえて書きました。

というものだった。山本さんには誠実にコメントをお寄せいただいていると思うが、この回答は残念だった。非常に重要なことなので、もう一度説明しておきたい。今回の件に限らず、大学教員は特にインターネットで紹介・批評されることにナイーブすぎる。どこでどのように自分について言及されているかを気にしすぎる。気になってしょうがないというところまではよいが、連絡を求めるようになっては行き過ぎでないか。
先に書いたように、連絡を求めるということが単なる通知にとどまるだろうか。連絡を受けることが一歩進んで許諾の授受にまで進むないだろうか。要は受け入れがたい批評に対する反応が、それを非難・中傷とみなして削除を求めるか、それとも根拠を添えて反論するか、このどちらになるかが問題だ。連絡を望むこと、それ自体は否定しない。だが、連絡を受けた際の反応は、対抗言論(More Speech)によってなす、という決意や覚悟がないのであれば、やはり安易に連絡を条件とすべきではないと思う。特に学生による教員の授業評価というジャンルにおいては、教員の側が連絡を望むこと自体、大学における権力関係に無頓着ではないだろうか。
山本さんはお寄せいただいたコメントのなかで、

教員の実名を公開する場合には、最低限、本人にその旨連絡を入れるべきだろう。

という主張が実際は「非現実的」であることを認めているが、そう思うのなら、なおさら書くべきことではないと思う。この表現が一種のレトリックであったとしても、言論に依拠する大学教員が用いてよいものであったかどうか、ここは真剣に考えてほしい。
このことは、けっして山本さんお一人に限ったことではない。特にインターネットで、そして研究者コミュニティーの外から、自分を紹介・批評されることについつい神経質になってしまう大学教員の方々には真剣に考えてほしいことだ。

(つづく)

2006-05-25(Thu)の編集日誌「授業評価サイトは中傷でいっぱい?」
http://d.hatena.ne.jp/arg/20060526/1148575116
2006-05-29(Mon)の編集日誌「続・授業評価サイトは中傷でいっぱい?」
http://d.hatena.ne.jp/arg/20060602/1149204122
2006-05-30(Tue)の編集日誌「大学による授業評価アンケートの公開事例」
http://d.hatena.ne.jp/arg/20060602/1149204121
・2006-06-01(Thu)の編集日誌「授業評価サイトは中傷でいっぱい?(2)」
http://d.hatena.ne.jp/arg/20060606/1149524988
2006-06-02(Fri)の編集日誌「授業評価サイトは中傷でいっぱい?(3)」
http://d.hatena.ne.jp/arg/20060606/1149525043