2007-02-26(Mon): それで学術研究が成り立つのだろうか

関学COEメールマガジン」第35号(2007-02-22)に掲載されている亀井伸孝さんの「論文無断引用をめぐる奇妙な論調」(エッセイ「幸福日記」28)がすばらしい。冒頭を引用させていただく。

テレビ番組の捏造疑惑をめぐる報道が相次いでいる。むろん捏造は論外だが、その中にひとつだけ不可思議な指摘がある。「論文の無断引用」に関することだ。

番組スタッフが、研究者の論文を著者の承諾なしに番組で用いた。このことが雑誌で批判され、論文著者は不快感を示し、テレビ局は論文の無断使用について謝罪した。つまり「論文を著者の承諾なく用いたことはよくなかった」という認識が、この三者で共有されてしまった。

これは、論文というものの性格を根幹から崩してしまう重大な事態だと思う。なぜなら、論文とは「著者の承諾なしに引用してもらうために書かれている文書」だからである。

新しい研究というのは、ふつう先行研究を批判しながら進められる。著者が引用の可否を決めてよいことになれば、批判的な研究はしにくくなり、斬新な論文よりもおべんちゃらを使う凡庸な論文がはびこることになる。

・「関学COEメールマガジン」第35号(2007-02-22)
http://blog.mag2.com/m/log/0000178057/108274937.html

非常にまともな指摘と思う。ぜひ全文を読んでほしい。

・亀井伸孝の研究室
http://www-soc.kwansei.ac.jp/kamei/index-j.html

さて、この認識は研究者たる者は等しく共有していると思いたいが、異論反論がある研究者はいるだろうか。論文という形に限らない。自分の名前で行った研究に関わる発言について、第三者が言及したり引用したりすることは自由であるということを理解できていない研究者がいるのだろうか。

残念ながら、いるということを私は実体験として知っている。一連の捏造問題とその報道や上に引いた亀井さんの文章から話を飛躍させる気はない。だが、亀井さんの発言に勇気を得て、常々抱えている静かな怒りを述べておきたい。

ACADEMIC RESOURCE GUIDE(ARG)の活動を通して、時折不快というよりは驚く事態に何度か遭遇している。ACADEMIC RESOURCE GUIDE(ARG)では、しばしば研究者の個人サイトや、そこで公開されている論文を含むドキュメントについて言及し、引用し、リンクする。私はこれは一つの言論であり、報道であるととらえている。ところが、「勝手に紹介しないでほしい」(実際の表現はもっと品がないことが多い)という叱責のメールを大学に籍を置く研究者からいただくことがある。そのときに必ずといっていいほど聞くのが、「事前に断りを入れるのがマナーである」「一言あってしかるべきである」という言葉だ。

だが、研究者が研究内容を公開している個人サイトを紹介するのに、なぜ事前のお断りを目的とした連絡が必要なのだろうか? 私には連絡を当然とする研究者の心理が正直理解できない。著作権法は一定の範囲内での自由な引用を認めている。それ以前に誰かが何かに言及することは、硬くいえば「言論の自由」である。研究者という職業はまさにこの「言論の自由」の上に成り立っているはずだ。研究者という自らの存在、あるいは研究という自らの活動の根拠を、どうして自ら否定することができるのだろう。

ここまでに納得できない研究者がいれば、ぜひうかがいたい。では、あなたは論文を書くとき、事前に言及・引用する論文の著者に事前に断りを入れるのだろか? もし著者が亡くなっていたら、遺族に事前に連絡するのだろうか? マックス・ウェーバーを引用する際、遺族を探し出して連絡するのだろうか? と。そして、もし事前にお断りを入れている場合、相手に言及や引用を断られたら、言及や引用はしないのだろうか? 万一にでも相手の意向を入れて言及や引用を慎んだら、学術研究は成り立つのだろうか?